067249 ランダム
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紫陽花色の嘘

紫陽花色の嘘

Stand By Me 3

 ノックの音で、目が覚めた。
「あや女、具合でも悪いのか?」
 頬が濡れている。声を出して、泣いていたらしい。
「おい、大丈夫か?」
 ドアの向こう側から、心配そうな里見の声が聞こえる。薄暗い部屋の中で、あや女はしゃくりあげそうになるのを堪えているので返事ができないでいた。
「開けるぞ」
 ドアが開いて、里見が部屋の中に入ってきた。あや女は、あわてて布団を頭の上まで引き上げた。
 里見が枕もとに近寄る気配がする。そして、布団がそっとめくられる。
 淡い月の光に照らされて、里見の心配そうな表情が見えた。あや女は、無理に微笑んだ。
「ごめん、ちょっと怖い夢見ちゃって。やあね、いい年してさ。もう大丈夫だから」
 だが、そう言うそばから涙が滲み出す。誰かに、こんなふうに心配してもらえたのは、どのくらい前だったろう。
 里見の温かい指が、そっと涙を拭った。
 暗くてよかった。顔が赤くなっても、大丈夫だから。
「昨夜も泣いてたんじゃないのか? 俺の聞き違いかと思ってたけど」
「覚えてない」
 たぶん泣いていたんだろう。夜中に目を覚ますと、必ず頬は濡れているから。
 あや女は、ゆっくりとベッドの上に起き上がった。
「ごめんね。本当に、もう大丈夫だから」
 そう言いながらリモコンを手にとり、CDコンポのスイッチを入れた。懐かしい、オールディズの曲が流れてくる。
「この曲、あの映画の?」
「そう。リバー・フェニックス、かっこよかったよね」
「ああ。……死んじゃったけどな」
 里見が、小声で呟いた。月明りに照らされた表情は寂しげに映ったが、それは一瞬のことで、すぐにいつもの調子に戻っていた。
「じゃあ、また怖い夢見たら呼べよ。添い寝してやるから」
「バカ言ってんじゃないって」
 そう強がるあや女に、里見は安心したようだった。あや女の頭をクシャッとなぜて、部屋を出ていった。
 あや女は横にならず、そのままカーテンの隙間から漏れる月明りを見ていた。
 スピーカーからは、黒人歌手の声が「そばにいて」と繰り返していた。

 朝は忙しくて、お互い昨夜のことには触れなかった。
 会社に着いてもあや女は少しぼんやりしていて、伝票の数字を間違えて課長に怒られてしまった。
「ミスって叱られたんだって?」
 昼休み、食堂で向かいの席に座った俊成が、イタズラっぽく笑った。
「仕方ないっす。あたしが悪いんだから」
 そう言いながら、あや女はうどんをすすった。いつもなら、俊成の真向かいで麺をずるずるすするなんて恥ずかしくてできないのだが、今日のあや女はそのことに気づいていない。
「あいつ、里見さあ、本当にあや女のところに泊まりにいったの?」
 カレーを食べながら、俊成が切り出した。
「うん。まだ新居決まってないみたい」
 訊かれることは予想していたが、なんとなく俊成に他の男の話をするのは嫌だった。
「そっか。あや女ちゃんも、とうとう人のものになっちゃったか」
「なにしみじみ言ってんのよ、新婚野郎が。それに、あたし先生とはなにもないからね」
「またまた、照れちゃって。健康な男と女が、一つ屋根の下でなにもないわけないだろうが」
 あや女はムカッときて言い返そうとした。しかし、俊成が続けて言った言葉に耳まで赤くなった。
「俺だったら襲っちゃうね。今だから言えるけど、俺、昔あや女のこと好きだったもん」
 あや女は箸を置いた。うどんなんかすすっている場合じゃない。
「調子いいこと言って。そんな素振り、全然なかったじゃない」
「あや女、堅そうだったから。軽蔑されたり、嫌われたりするのが怖かったんだよ。俺に、里見みたいなチャンスがあったら……」
 隣のテーブルに人がきたので、俊成はその先は言わなかった。
「ま、でも里見で良かったよ。あいつなら俺も許せるし。って、俺の許可なんて要らないか」
 そう言って一人で笑うと、俊成はダッシュでカレーを食べて席を立った。後には、あや女とのびたうどんが残された。
(今だから言える、か)
 俊成にとって、あたしは過去なのだ。
 午後、あや女は午前中の失敗を取り戻すかのように、テキパキと仕事を片付けた。
 なんとか残業なしで早く帰りたかった。早く独りきりになって、ゆっくりと考えたかった。

 しかし、なかなか独りきりにはなれないのだった。
 家に帰ると、里見が居間でポテトチップを齧りながらテレビを見ていた。テーブルの上には、赤い丸やバツのついたプリントがたくさん載っている。
「なんで、そんなに早く帰ってるのよ!」
 あや女は、思わず怒ったような口調になった。
「中間テストだもん」
「だったら部屋探しでもしてきたら」
「もう決めたよ。明日出てくから」
 あっさり言われて、あや女は拍子抜けした。そして、意外にも少し寂しいと感じた。
「俺がいないと寂しい?」
 里見が笑いながら言うので、あや女はあわてて自分の気持ちを引っこめた。
「まさか! せいせいするわ」
「そう言うと思った。カレー作ったんだけど、食う?」
 言われて気がついたが、部屋の中にはカレーの匂いが充満していた。
「先に食っちゃえと思ったんだけど、大きいスプーンがどこにあるのかわからなくてさ。もし帰りが遅かったら、箸で食うつもりだった」
 里見はそう言ったが、あや女は、彼が待っていてくれたんだと気づいた。スプーンなんて、引き出しを開ければすぐに見つかる。
 カレーの匂いをかぐと、俊成のことが思い出された。しかし、今日は考えないことにした。今日は、里見と過ごす最後の夜だから。俊成のことは、明日一人になってから考えればいい。
 その時、インターホンが鳴った。
「ちょっとガス消しといてくれる」
 そう言いながら、あや女は受話器をとった。「はい?」
『……桜子』
 あや女はあわてて玄関のドアを開けた。現れた顔は、間違いなく異母妹だった。長い髪を背に垂らし、大人っぽいカットソーにロングスカートを身につけている。あや女は急に、自分の無造作に束ねた髪や、よれよれの綿シャツ、ジーパンが恥ずかしくなった。
「あんたがここにくるなんて珍しいね。入んなよ」
 あや女は、強いて落ち着いて話した。だけど、桜子はあや女のほうを見ようとはせず、玄関に置かれた大きなリーガルの靴を見つめていた。
「なんか用事なんでしょ?」
「……あんたにじゃない。里見出して」
 桜子の態度に、あや女はムッとした。しかし、「家庭の事情」を考えると、打ち解けあえるわけもないと思い直した。
「先生―! お客さんだよ」
 里見はのそのそと出てきたが、桜子を見ると心底驚いたような表情をした。
「江口、まさか、後をつけて……え? 江口って?」
 里見は、ようやく二人の名字が同じ事に気づいた。
「里見!」
 桜子は、いきなり里見に抱きついた。
「おい、こら、どーしたんだよ、いきなり」
 パニックになりかかっている里見を尻目に、あや女は開けっ放しになっていたドアを閉めた。
「続きは中でやってよ。カレーを食べよう」



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